伊達政宗が父親をたおさなければならなかった悲しい理由とは?

伊達政宗の青年期の逸話として、人質になった父・輝宗を斃さなければならなかったという事件があります。

今回は、政宗が父親をたおさなければならなかった理由と、経緯についてご説明します。

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事件の発端と経緯

天正12年(1584年)、伊達政宗は父・輝宗から家督を譲られました。

輝宗41歳、正宗18歳という若さでの家督相続は、伊達家内に政宗ではなく弟の小太郎を後継者にという空気が流れていたことを父・輝宗が心配して、早々に政宗に家督を譲ったという説もあります。

その頃の東北地方の武将たちは、敵対や和睦を繰り返すという微妙な力関係を保っていました。

そして、小手森城主の大内定綱と二本松城主の畠山義継が手を組み、田村氏からの支配を逃れて伊達家に対抗しました。

それに激怒した政宗は、大内定綱の城・小手森城を攻め、城兵を始め女子供に至るまで約800人を撫で斬りにしてしまったのです。

この事に慌てた畠山義継は、領地の半分を差し出すという条件で降伏を願い出ます。

しかし、ここで政宗が出した条件は「5つの村を残しほとんどの領地の没収、そして後継者である国王丸を人質として差し出す」というものでした。

畠山義継は内心では不満に思いながらも、その条件をのんで和睦が成立しました。

そしてその二日後、畠山義継はお礼という名目で30人ほどの家臣を連れて、宮森城にいた輝宗の元にあいさつに訪れ、見送りに出た輝宗を拉致して逃亡してしまうのです。

その知らせを受けた政宗は鷹狩りから急いで戻り、人質になった父・輝宗を含めた全員を鉄砲で斃してしまいました。

ためらった政宗に「かまわん、わしもろとも撃て!」と何度も叫ぶ父、心を決めて銃撃の指示を出した政宗の胸中はどうだったのでしょうか。

謎が残る、正宗が父親を撃った理由

この出来事に関しては様々な説が存在し、現在でも意見が分かれるところとなっています。

一つは、輝宗拉致の報告を受けてから、政宗が鉄砲隊を編成して現場に到着するまでの時間があまりにも短いということから、あらかじめ仕組まれた出来事だったのではないかという説です。

「政宗記」には、政宗は鷹狩には行っておらず小浜城の陣屋で武器の準備をしていた、とあります。

つまり、それに気づいた畠山義継の家臣がそのことを義継に告げ、警戒した義継がやむを得ず輝宗を拉致した、という筋書きです。

この場合、父親まで巻き添えにしてしまったのは政宗にとっては想定外だったと思われますが、結果的にはこの事件を口実に、畠山家を滅ぼして領地を拡大することに繋がりました。

また、政宗が父を疎ましく思っていたので畠山義雄の謀反にかこつけて輝宗を撃ったという陰謀説もありますが、いずれも確証はなく現在でも議論が続いています。

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