天下一の茶人・千利休と伊達政宗、一見ほとんど関わりのない両名ですが、実は豊臣秀吉を介しての微妙な関係があるのです。
今回は、あまり知られていない千利休切腹の原因と、伊達政宗の関係についてご紹介していきます。
秀吉に取り立てられた千利休
天下統一のために東奔西走する豊臣秀吉は、日本の商業・海外貿易の拠点である自由都市・堺を掌握する必要がありました。
織田信長の人心掌握術を踏襲した秀吉は、「茶の湯」の効果が絶大である事に目をつけ、茶の湯の師匠として千利休を重用しました。
千利休は天下の三大宗匠の一人であるとともに、堺の街の支配層の一員でもあり、また朝廷や公家との間に茶の湯を通じてのつながりがある人物でした。
良きアドバイザーとして千利休は秀吉にとって大切な存在であり、しばらくの間は良好な関係が続きましたが、千利休の権威が大きくなるにつれて危険な存在になっていくことを秀吉は危惧しました。
そこには、秀吉の側近として様々な面で秀吉をサポートしていた、異父弟の豊臣秀長の体調不良そして亡くなったことが大きく関わってきます。
秀長は温和な性格で、秀吉と周囲の大名や部下との間に入り、感情的な行き違いなどをうまく折衝していたのです。
そして秀長が参戦できなかった北条との争いのあたりから、秀吉と利休の間に修復不可能の溝ができてしまいました。
秀吉激怒、千利休の切腹、そして伊達政宗との関り
その後千利休は秀吉の逆鱗に触れて、蟄居させられて切腹を命じられることになります。
その理由としては、大徳寺の山門に自分の木造を設置し、その下を秀吉に通らせた不敬罪、秀吉の政策に口を出し始めた、茶道具の目利きにに関して、利休の一声で価格が高額になる事が秀吉の逆鱗に触れたなど、いくつもの説があります。
どれが真相なのかは現在でもわかっていませんが、これらの要因が重なったものとも考えられています。
いずれにせよ秀吉は千利休に切腹を命じ、この際に細川忠興など大名弟子は事態の収拾に奔走しましたが結局利休の命を助けることはできませんでした。
ここで、もう一人小田原攻めへ遅参し、秀吉を激怒させた武将がいました、それが伊達政宗です。
政宗は小田原参陣に遅参したことを、髷を切り白装束に身を固めて平身低頭して申し開きをし、切腹を免れました。
あくまで推測ではありますが、秀吉は利休に切腹を命じても政宗のように謝罪をして命乞いをしてくるものと踏んでいたのではないか、という説があるのです。
腹は立っているものの、優秀で必要な人材である千利休を失いたくない、しかし権力を広げてほしくないという葛藤で、利休が申し開きをしてくると踏んで切腹を命じたと考えられるのです。
秀吉は勢いで切腹を命じたものの、立場上折れることはできなかったので利休に謝罪をしてほしかった、しかし利休はそれをせず、切腹してしまったのです。
小田原攻めの遅参の際の伊達政宗の謝罪
秀吉に、もう少し遅れていたら首と胴が離れていたぞ、と言わせた伊達政宗の遅参に対する謝罪と申し開きは、秀吉にとって筋書き通りだったと考えられます。
しかも派手好きな秀吉にとって、白装束で現れた伊達政宗の派手なパフォーマンスは許すに足りる謝罪方法だったと推測されます。
それを千利休にも期待したが、結局謝らずに切腹してしまった、という可能性は完全に否定できません。
伊達政宗は一国の大名であり、多くの領民の命を抱えている立場から、自分の思惑だけで秀吉に楯突くことはできませんでしたが、千利休は高名で弟子は多いものの、大名ではなかったということも一つの原因とも推測されます。
伊達政宗としては決して意図した行動ではなかった謝罪でしたが、それが千利休の切腹の原因になったのかもしれない、とも考えられるのが歴史の面白さの一つなのかもしれません。