独眼竜で有名な戦国武将・伊達政宗と、伊達政景の名でも知られる武将・留守政景の間には深い関りがあります。
今回は伊達家と留守家の、興味深い縁と関係をご紹介します。
伊達政宗と留守政景の関係
留守政景は、伊達政宗の実の父親である伊達輝宗の弟に当たり、しかも母親も同じ兄弟です。
つまり、伊達政宗から見れば留守政景は血の繋がった叔父に当たります。
伊達輝宗と留守政景の母・久保姫は絶世の美女だったと伝えられており、その嫁ぎ先を巡って久保姫の父・重隆は伊達氏や相馬氏と対立するほどでした。
そして、伊達晴宗と久保姫の子を岩城氏や留守氏の養子に迎えることを条件に、久保姫は伊達晴宗の正室になったのです。
伊達晴宗と久保姫との仲はとても良く、六男五女に恵まれました。
留守政景と伊達家との関係
伊達晴宗の三男として生まれた政景は、留守顕宗の養子となり、奥州の名族である留守氏を継ぐことになりました。
その後、余目氏や村岡氏の反抗を鎮圧するとともに、兄である伊達輝宗や甥である伊達政宗を補佐しました。
伊達政宗の重臣として、留守政景は実家の伊達氏の勢力拡大に大いに貢献したのです。
留守政景の兄・伊達輝宗が隠居して、甥の伊達政宗が17歳で伊達家の家督を継いだ時には、留守政景は伊達一門筆頭で後見役的な立場でした。
天正18年には岳父である黒川晴氏が伊達政宗によって拘禁されましたが、留守政景の助命嘆願によって許されるなど、留守政景は伊達家の中でも発言権があり、重用されていました。
伊達姓に復した留守政景
留守政景は慶長5年の関ケ原の戦いの際では、「北の関ケ原」と呼ばれる長谷堂城の戦いで、伊達政宗の命により伊達軍の総大将を命じられました。
留守政景は上杉景勝の攻撃を受けていた最上義光の救援をし、撤退する上杉軍と交戦、指揮をする直江兼続と激戦を交えたと記録に残っています。
同年には、留守政景自身の父方の従兄そして甥で、伊達政宗との確執から出奔した伊達成実を伊達家に戻すなどの功績を上げています。
そして留守政景は、伊達姓を名乗ることを許され、慶長9年に一関2万石を与えられました。
伊達家にはこのような分家がたくさんあって、その中でも限られた者しか伊達姓を名乗ることが許されませんでした。
一度臣下の家の養子に出された者が復姓するということは稀であり名誉なことで、それだけも伊達政宗は留守政景を買っていたと思われます。
留守政景の長男・宗利は金ケ崎城主、後に水沢城主となり水沢伊達氏となって後世に続いていきましたが、水沢伊達氏の男系は断絶し現在では女系の血統で続いています。
ちなみに、江戸末期の戊辰戦争での敗戦後、伊達氏から元の留守氏に戻ったとされています。