奥州の雄・伊達政宗は、戦国時代が終わり徳川による天下泰平が訪れた後は軍事行動をやめて趣味に没頭したとされています。
今回は伊達政宗の趣味の中でも、特に晩年夢中になった料理についてのエピソードを紹介していきます。
戦国武将が本当に料理をしていたのか?
伊達政宗が開発した料理についてご紹介する前に、そもそも伊達政宗をはじめ戦国武将たちが本当に料理好きであったかについて検証していきます。
これは、政宗の逸話が収録されている「命期集」「伊達政宗言行録」「政宗記」などの複数の史料に、料理の心得や献立などが記されていることから、伊達政宗は料理好きだったことは真実だったのではないかと思われます。
そして伊達政宗だけではなく、立花宗成や本田忠勝などの史料にも料理に関する逸話が残されていることから、この時代において武将(男性)が料理をするということは珍しいことではなかったと推測されます。
政宗が開発したと伝えられる料理
政宗が開発したとされている料理の中では、仙台味噌・凍り豆腐・ずんだ餅などが有名です。
また、おせち料理に欠かせない伊達巻も伊達政宗が開発したものだという説があります。
しかし、様々な史料や研究を元にそれぞれの由来を調べてみると、どうやらこれらの料理は伊達政宗が料理したとされる以前からあったと思われるのです。
仙台味噌は、朝鮮出兵の際に持参した味噌が夏場でも腐らなかったことから、他の大名に絶賛されたと伝えられています。
そしてそれを政宗が持参したとはっきり記された史料はなく、また仙台味噌の「仙台」は朝鮮出兵後に名付けられたものだという説もあり、伊達政宗が開発したという根拠は見出せません。
しかし、後に政宗が仙台藩の産業として仙台味噌を普及させたことに関しては事実のようで、仙台城下に政宗が「御味噌蔵」を設け、藩で余った味噌を江戸に払い下げたという記録は残っています。
兵糧の研究の過程でできた?凍り豆腐
凍り豆腐も政宗が開発したという説がありますが、これに関しても明確な史料はありません。
政宗が兵糧を研究する際に誕生したものという説もあるのですが、凍り豆腐は別名高野豆腐とも呼ばれ、それに関してはその名のとおり高野山が発祥の地とされていることから、政宗が開発したと言い切れない部分があります。
また凍り豆腐に近い調理法は中国にも存在しており、中国伝来という説も有力になっています。
政宗が開発した可能性も否定はできませんが、完全オリジナルの食品ではなかったという説が有力です。
政宗はずんだ餅、伊達巻の名付け親?
ずんだ餅は、茹でてすりつぶした枝豆を餡にして作った餅菓子で、仙台銘菓として知られています。
「ずんだ」の語源として、合戦の際に「じんだ」といって太刀で豆を切り刻んだという説、その製法から「豆打(ずだ)」となったなど、
いくつかの説が存在し、これも伊達政宗が名付けたという可能性を否定も肯定もできないものとなっています。
また「伊達巻」に関しては、伊達政宗が調理した、あるいは伊達政宗の好物だったという逸話が残っているものの、はっきりと政宗が考案したという記録は残ってはいません。
このように、政宗が考案したとされている料理に関しては信憑性が疑われるものが多いのですが、政宗が料理に対して興味があり、また食文化に与えた影響が大きいというのは真実だとされています。
現在普通に食べられているような形のおせち料理を開発したのは伊達政宗だったと伝えられており、客人をもてなす時は自ら包丁を握ってこだわりの料理をふるまったという記録は残っています。
しかし普段の料理は大変質素で、「朝夕の食事を、うまからずとも褒めて食うべし」という名言を残したように、出された料理は「おいしい」と褒めて食することが大切だという名言を残しています。