独眼竜と呼ばれ戦場を駆け抜けた伊達政宗。
今回は伊達政宗の剣術と、伊達家を支えた家臣たちについてご紹介します。
伊達政宗の剣術と刀好きな一面
伊達政宗の剣術の腕を証明する、戦場でのはっきりした記録は残っていません。
しかし、伊達家の嫡男として生まれ、幼いころから帝王学を学ばなければならなかった政宗は、優秀な師匠の下で剣術の稽古は欠かさなかったと推測されます。
正宗は日本刀に対して大きな情熱を注いでいたと伝えられており、酒席で家臣の刀をチェックしていたという逸話が残っています。
当時は、家臣達が相応の刀や脇差を差していないのは、大将にたしなみがないせいだとされていたことから、政宗は家臣達にも良い刀を持つように推奨しました。
政宗愛用の刀
銃のイメージが強い伊達政宗ですが、実は刀のコレクターという側面があり、多くの名刀を所持していました。
その中でももっとも有名なのが「燭台切光忠」で、この刀の切れ味に関しての伝説が残っています。
罪を犯しても反省していない小姓に向かって、政宗がこの刀で斬りつけたところ、小姓は真っ二つになりその先にあった燭台までも斬り落とした、という話です。
「黒ん坊切影秀」は備前長船派の刀工・影秀の作で、別名「鞍切影秀」と呼ばれている名刀も、政宗は愛用しました。
「黒ん坊切影秀」は伊達家の重臣である石川昭光から献上された刀とされていて、政宗の愛刀のなかでも最高傑作と評されている一品です。
他にも「大倶利伽羅広光」「太鼓鐘貞宗」なども、政宗が所持し現在まで仙台伊達藩に代々伝わる名刀です。
また、政宗は刀好きが高じて「国包」という刀鍛冶を育成して、京都の越中守正俊の元で学ばせました。
そして国包以降もその一門は14代続いて、伊達家のお抱え鍛冶として明治に至るまで活躍しました。
伊達政宗の家臣達
伊達家には優秀な家臣たちが多数いて、政宗を支えました。
まず一番の忠臣といえば、片倉小十郎(景綱)です。
片倉小十郎の姉の喜多が政宗の乳母だったこともあり、政宗にとって小十郎は家臣というよりも信頼できる師であり兄のような存在だったのではないかと思われます。
そして、政宗の器量を一番初めに見抜いて正宗を支え続けた小十郎は、秀吉からの誘いまで断り、最期まで伊達家のために尽くした武将でした。
片倉小十郎が智ならば、伊達成実は武で正宗を支えた猛将でした。
正宗が遅参した小田原参戦の際に伊達成実は、「秀吉と戦うべき」とあくまで戦う姿勢をとっていたといわれています。
正宗との確執で一度は出奔した伊達成実でしたが、その後片倉小十郎らの説得により帰参し、今まで以上の忠誠を誓って正宗に仕えました。
また、原田宗時・後藤信康はお互い良きライバルとして伊達家のために働きました。
その他数々の武将たちが、政宗の人柄に惚れこんで忠誠を誓い武功をあげたとされています。