伊達政宗の逸話として、母に毒入りの料理を出されて命を落としそうになったというものがあります。
今回はその「毒殺未遂事件」の真偽を、その後の政宗の手紙などを元にご説明していきます。
伊達政宗と母・義姫との関係
伊達政宗の生母・義姫は、出羽国の戦国大名最上義守の娘、そして最上義光の妹として生まれました。
そして最上氏と敵対する伊達家の伊達輝宗に嫁ぎ、嫡男の政宗そして弟の小次郎を産みます。
義姫は大変気丈な女性で行動力もあったことから、たくさんのエピソードを残していますが、政宗を毒殺しようとしたという逸話に関しては疑問が残るのです。
また、敵対していた最上家から送り込まれた女スパイ説、最上義光から夫を暗殺するように命じられていた説など、非情な女性そして鬼母のイメージが浸透していますが、現在ではどの説にも疑問符がついています。
疱瘡で醜くなった伊達政宗を疎んじて、弟小次郎に伊達家を相続させたいために、政宗に毒入りの料理を出したという逸話が有名になっていますが、実はこの逸話は史実には記されていないのです。
伊達家と最上家を思って行動に移した義姫
実際の義姫は、伊達家と最上家の間が険悪だったことで、両家と情報のやり取りをし交渉を重ねました。
「輿に乗って80日陣に居座った」という逸話が伝えられていますが、屋外にある輿で居座るという状況は現実的ではありません。
交渉に奔走したということが真実であるなら、近隣に宿を確保するなどの方法を取ったのではないかと考えられます。
しかしこのような行動が許された義姫は、伊達家・最上家の両家からの信頼が厚かったと思われ、実際この交渉の間に双方とかなりの数の手紙が交換されています。
この事から、従来からドラマなどの脚色で鬼母のように描かれていた義姫は、聡明で粘り強く、交渉力のある女性であったと推測されるのです。
政宗の朝鮮出兵の際の、義姫との手紙
フィクションですと義姫は、政宗の弟小次郎が亡くなった後に実家に出奔してしまうのですが、史実では伊達の居城である岩出山城に留まったと伝えられています。
この頃、上洛した政宗は、たびたび母・義姫に手紙と贈り物を届けました。
また朝鮮出兵の際も、政宗は朝鮮での戦況を詳しく知らせていたり、
義姫からはお金が送られたりしています。
手紙の内容もお互いを気遣うものとなっており、とても親子間で毒殺未遂事件があったなどと想像できるような関係ではありませんでした。
また最近見つかった資料によると、毒殺未遂事件の後も義姫は政宗のもとに居続けて、離れた後も手紙の交換をしていたことがわかりました。
政宗毒殺未遂事件の真相はまだ闇の中ですが、見つかった史料の信憑性から、義姫に対する評価を改めて見直すべきではないかと思われます。