伊達政宗が家臣の支倉常長に命じてヨーロッパに派遣した使節を、慶長遣欧使節といいます。
慶長遣欧使節の目的は、ヨーロッパとの通商だとされていますが、そこには隠された使命があったのではないか?という説もあります。
今回はその隠された使命・目的の真偽についてご紹介していきます。
ヨーロッパの通商目的で、幕府に容認された慶長遣欧使節
伊達政宗は慶長遣欧使節を送るにあたって、幕府の許可を取る必要がありました。
そこには、徳川家康が海外との通商を望みはしたものの、キリスト教を禁止していたことから積極的にヨーロッパ諸国に働きかけることができないという側面がありました。
幕府はあくまで伊達政宗の要請を受けて承認した、という体裁をとるのがベストだと判断したのです。
しかも、その許可はあくまで「メキシコとの通商」を目的としたものでした。
しかし実際の慶長遣欧使節は、メキシコを中継点としてスペインまで渡航し、ローマ教皇と謁見するほどの大掛かりなものでした。
支倉常長、無念の帰国
政宗は支倉常長らを通して、ローマ教皇パウロ5世と謁見し、親書を奉呈しました。
この文書で政宗は、
・宣教師の派遣
・司教の任命
・メキシコとの通商、交易の開始の支援
この3つを要請したのです。
そして支倉常長は、政宗の日本におけるキリシタン王の叙任、キリシタン騎士団の創設許可までも口頭で請願しました。
しかし、政宗自身が洗礼を受けておらずキリシタンでないことから、これらの要請は却下されてしまいました。
支倉常長らは、何とか国王から許可をもらおうと7年間もの長い間懸命に努力をしましたが、ついにスペイン政府は強制退去を命じ日本に帰ることになってしまいます。
伊達政宗の野望
これらの史実を考え合わせると、伊達政宗は幕府の対外政策に反して、伊達藩が単独でスペイン政府と同盟関係を結ぼうとしたと考えられるのです。
その上、単に通商目的だけではなく、スペインの力を借りてもう一度天下統一を視野に入れていたのではないかと思われる節もあります。
実際、大阪城落城以後は具体的な軍事行動を表向きは押さえていた政宗でしたが、いつ天下を分ける戦闘になってもいいように、図上演習すなわち作戦立案をしていたという記録も残っています。
結果的に失敗に終わってしまった慶長遣欧使節ではありますが、当時のヨーロッパ人は、支倉常長の立ち振る舞いや衣装、そして長きにわたる不撓不屈の精神力に脅威と感銘を受けたと伝えられています。
現在でもヴァチカン図書館また仙台市博物館に、慶長遣欧使節関係資料が多数残されており、国宝となっています。