伊達政宗が残した東日本大震災で活きた教訓とは?

3.11の東日本大震災で大きな被害を受けた仙台市ですが、約400年前の伊達政宗が仙台藩を統治していた時代にも、慶長の大津波に襲われていました。

今回は、伊達政宗による災害復興事業、そしてそこから得た教訓についてご紹介していきます。

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400年前に仙台を襲った大津波

慶長16年(1611年)、東北地方の太平洋岸を大津波が襲いました。

この時期には日本各地で大地震が発生し、多くの戦国大名の城が崩壊してしまいます。

1596年には一週間の間に、伊予地震、豊後地震、伏見地震が次々と発生、1605年には東海地震が発生しました。

そして1611年に慶長三陸沖地震が発生し、北海道沖の震源地から三陸・仙台を大津波が襲ったのです。

慶長三陸沖地震が起こった時、仙台藩の当主は伊達政宗で、地震当時44歳でした。

正宗は前年に仙台城築城のために青葉山に縄張りを始めており、地震が起きた時には高台にある仙台城にいたとされています。

伊達政宗の復興事業

正宗は地震の状況を直ちに幕府に報告し、いち早く復興にとりかかりました。

奥州街道の一部を内陸側に移し、米などの食料を早くそして安全に運ぶ物流ルートとしました。

また「貞山堀」という運河を、阿武隈川河口と名取川河口を結ぶ海岸線に造り、北上川河口の石巻を整備して集積地とし、産業の振興を目指したのです。

ちなみに「貞山」というのは、政宗のおくり名です。

正宗は更に、津波で浸水した地域を塩田として開発、製塩業という復興事業を進めました。

塩釜(鹽竈とも表記)を始め仙台周辺には「塩」「釜」がつく地名が多くみられますが、これらは塩田開発にちなんだ地名です。

そして塩田開発と併せて新田開発にも尽力し、津波で家を失った住民を沿岸部へ戻す施策を進めました。

東日本大震災の復興に役立った伊達政宗の施政

仙台以北の奥州街道は、津波被災地域を避けて内陸部を通っています。

そしてこの奥州街道に沿って作られたのが、国道4号線であり東北自動車道です。

東日本大震災では、南北に通る国道や高速道路から櫛の歯のように沿岸部へと道路を繋げて、早期の道路復興に役立ったのです。

伊達正宗が津波が来ない地域に奥州街道を移設したことが、400年後の東日本大震災で大いに役立ったといえます。

そして奥州街道沿いの盛岡市や遠野市などの内陸部の都市は、比較的被害が少なかったために、被害の大きい沿岸部への救援役にもなったのです。

慶長の大津波によって塩に浸かり作物が育たなくなってしまった土地を塩田にし、職を失くした住民はその塩田に関わる仕事に従事して生活ができるようになりました。

これは、塩害で苦しむ地域に別の産業を持ってきて、地域を振興させようという、政宗の優れた「逆転の発想」であり、現代のビジネスにも充分通じるオピニオンとなっています。

もう一つ注目すべき点は、政宗が仙台藩内に杉の植林を推奨したことです。

その時に「今は杉の苗は役に立たないけれど、子や孫の代には必ず重宝になる」、つまり今やっている事業は子孫のために役立つ、と言い残しています。

東日本大震災の復興や被害にあわれた方々への指標として、「長いスパンで復興を考えていくことが大切」だということを、伊達政宗は400年前に言い残していたのです。

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