伊達政宗の墓のある高野山、戦国武将と縁の深い高野山の奥の院とは?

伊達政宗の正式な墓は仙台市の瑞鳳殿にありますが、位牌は各地に安置され、また供養墓が他の大名たちと同様に高野山の奥の院にあります。

今回は、なぜ高野山奥の院に大名たちの供養墓が存在するのかについてご紹介していきます。

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高野山・奥の院とは

高野山は和歌山県北部高野町にある、周囲を1000m級の山に囲まれた平坦地です。

平安時代の816年、嵯峨天皇から弘法大師(空海)に高野山が下賜され、弘法大師はこの地を真言密教の根本道場としました。

その後、弘法大師が入定した奥の院を信仰の源とし、壇上伽藍を修学の場としたとされています。

また、関ケ原の戦いで敗れた真田幸村が、父である正幸とともに高野山の蓮華定院に蟄居したことでも知られています。

高野山奥の院は、国の史跡であり世界遺産に認定されています。

山内は全て一山境内地として金剛峯寺の境内となっており、数々の重要文化財や世界遺産になっている場所・建築物があり、全てを見るにはとても一日では難しいほどの規模となっています。

御廟橋の先に灯籠堂そしてその裏に空海の御廟があり、参道には皇室・公家・大名などの墓が多数並び、その数は正確に把握できないほどです。

奥の院の入り口である一の橋から御廟までは約2㎞、その途中には弥勒石などの七不思議と呼ばれる場所もあります。

なぜ奥の院に戦国大名の墓が多いのか?

高野山奥の院の参道には、約20万基もの墓が並んでおり戦国武将の墓が多数存在しています。

伊達政宗・上杉謙信・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉ら名だたる有名武将の墓があり、そこには空海上人のそばで眠るという願いが込められているとされています。

また、徳川家康が高野山を墓提所と定めたことから、それ以後諸大名がこぞって高野山に墓石を建てたことも、高野山に戦国武将たちが墓所を作った大きな要因となっています。

この高野山奥の院では、皇族から大名そして一般庶民まで生前の所業は一切関係なし、全ての人の魂を等しく受け入れる懐の深さを感じることができます。

ちなみに伊達政宗の墓は、生前敵対していた石田三成の墓と明智光秀の墓と隣り合った場所にあります。

また高野山奥の院には、企業の墓も多く存在し、ビジュアルの凝った墓を見ることもできます。

コーヒーカップの形の墓石(UCC上島珈琲株式会社)やロケットの形の墓石など、訪れる人たちの目を惹く墓石も高野山の見どころの一つとなっています。

この企業墓の多くは慰霊碑の意味を持っており、毎年慰霊の法要をしている企業もあります。

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