北海道南西部、札幌と函館の中間に、伊達市という場所があります。
今回はこの伊達市と伊達政宗・伊達家との、あまり知られていない関係について詳しくご説明します。
伊達政宗は二人いた!由緒正しき伊達家
独眼竜で有名な伊達政宗は、伊達家17代目に当たります。
そしてあまり有名ではありませんが、9代目も同じ伊達政宗なのです。
伊達家の出自は平安前期の公卿・藤原山陰(藤原北家)とされており、鎌倉時代に源頼朝から伊達郡(現在の福島県あたり)の地を与えられ「伊達」を名乗ったと伝えられています。
「伊達」という地名は元々「いたて」「いたち」と呼ばれており、慶長遣欧使節で支倉常長がローマ教皇に渡した政宗の書簡に「IDATE MASAMUNE」のサインがあることから、「いだて」とも称していたと思われます。
伊達氏初代の伊達朝宗以降、歴代当主のほとんどが「宗」の字を使用しています。
北海道開拓に向かった伊達家の子孫
17代独眼竜・伊達政宗の父である輝宗の叔父の伊達実元の子・伊達成実は、政宗の重臣でした。
その伊達成実は、慶長7年に、白石城に移った片倉景綱に替わって亘理城(現在の宮城県亘理郡)に入り、その後成実の子孫は江戸末期まで約250年間15代にわたって亘理の地を治めるようになります。
そして江戸末期・幕末に、新政府軍と旧幕府軍との争いである戊辰戦争が勃発します。
旧幕府軍だった仙台藩は敗戦、その領地を大幅に減らされることとなり、亘理伊達氏も2万4千石から58石に所領を大幅に減らしました。
多くの家臣を抱えて苦慮した15代当主・伊達邦成は、明治元年に蝦夷の有珠へ移住することを決断、開拓事業に取り組むのです。
伊達藩総動員で様々な苦労や困難を乗り越え、荒れ地は農地に、そして居住に適した地に変貌したその土地は、1925年に町制に移行した際に伊達町となり、太平洋戦争後に伊達市に移行しました。
伊達登別時代村
登別は伊達市と山を挟んで隣接しており、仙台藩伊達家家老の片倉小十郎が藩士を率いて開拓した土地です。
この片倉小十郎は、政宗に仕えていた片倉小十郎ではなく、その子孫です。
伊達登別時代村は、江戸時代の伊達家にちなんだ建物や文化、風俗を体験できる歴史テーマパークです。
片倉小十郎の屋敷を復元した屋敷や、時代劇撮影処(着物を着て写真を撮ることができるスポット)などもあり、実際に侍や町娘の衣装を着て江戸時代の街並みを歩くという体験もできます。
伊達登別時代村は、北海道の広大な大自然の中のカルチャーパークとなっており、登別温泉にも近いことから、外国人を含む大勢の観光客が訪れています。