奥州の王といわれた伊達政宗、その偉大な父のもとで育った
息子や娘たちはどんな人生を歩んだのでしょうか?
今回は伊達政宗を中心とした家系図、そして子供たちはどういう道をたどったのかについてご紹介していきます。
伊達政宗、奥州伊達氏の嫡男として誕生
伊達政宗は、永禄10年(1567年)に誕生、幼名は梵天丸といいます。
政宗の父は奥州伊達氏16代当主・伊達輝宗で、母は最上家当主・最上義守の娘そして最上義光の妹の義姫でした。
戦国期の伊達氏は、伊達政宗の曾祖父の伊達植宗・父の輝宗の代に勢力が拡大し、政宗は生まれた時から奥州の王子だったのです。
ちなみに政宗が誕生した1567年は、織田信長が美濃を攻め取り「岐阜」と改称し、天下布武の朱印を使い始めた年になります。
政宗には一歳違いの小次郎(幼名は竺丸)という同父・同母の弟がおり、母の義姫は政宗を疎んじ小次郎を愛したとされていますが、真偽のほどは定かではありません。
また、小次郎は22歳で急死、政宗との兄弟対立の末に政宗によって命を絶たれたとされていますが、これも後世の創作であるともいわれています。
伊達政宗の側室の子、長男・秀宗
伊達政宗には正室・愛姫と、記録に残るだけでも7人の側室がいたとされており、10男4女を儲けました。
正室の愛姫は、あまりに可愛らしいことから東北の方言で「めんこい姫」から「めごひめ」となったと伝えられています。
愛姫の実家は、現在の福島県三春の大名・田村家で、坂上田村麻呂の子孫とも言われている名家です。
政宗と愛姫は生涯仲が良かったと伝えられていますが、結婚当初なかなか子宝に恵まれませんでした。
先に、側室の新造の方との間に男子(秀宗)が産まれます。
伊達秀宗は正室との子ではありませんが、伊達家の長男だったことから、豊臣秀吉が当時4歳の秀宗に家督を譲って政宗は隠居せよという命が下りましたが、徳川家康のとりなしによってなんとか収まりました。
その後秀宗は幼少期のほとんどを人質として各地を転々とし、この間に正室・愛姫に男子が生まれたことから、秀宗は伊予の宇和島の初代藩主になります。
その後秀宗は伊予で、父・政宗譲りの頭の良さと肝の座りようで、名君と称えられるほど良い藩政を敷いたと伝えられています。
正室・愛姫との子供達
秀宗誕生の後に、正室の愛姫にも子が生まれました。
長女の五郎八姫は、徳川家康の六男である松平忠輝のもとに嫁ぎ、徳川家との関係の強化に寄与しています。
そして仙台藩を継ぎ第2代藩主になったのは、嫡男である忠宗でした。
その忠宗の「忠」の字は、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の「忠」を頂いたものです。
伊達忠宗は、父のようなカリスマ性はなかったものの、地道に仙台藩の地位を守り藩の基盤固めに務めました。
また、母(愛姫)の実家・田村家を再興させるなどの功績を残し、「守成の名君」と評されました。