上杉謙信の養子・上杉景勝と伊達政宗との興味深い関係とは?

伊達政宗と上杉謙信は、活躍した年代が違うために直接の接点はありません。

しかし、謙信の養子である上杉景勝と伊達政宗とは、興味深い関係がみられます。

今回は上杉謙信の遺志を継いだ上杉景勝と、伊達政宗との興味深い関係についてご紹介します。

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家臣を見れば大名としての位がわかる?

奥州から天下取りの野望を抱く伊達政宗、そして越後の龍・上杉謙信の跡目を継いだ上杉景勝、この二人は豊臣秀吉・徳川家康と争い、また恭順しながら戦国時代を生き抜いてきました。

上杉景勝、伊達政宗に共通するのは、お互い優れた家臣がいたことです。

伊達政宗には片倉小十郎、そして上杉景勝には直江兼続という、文武両道の優れた重臣がいたおかげで、この二人の武将は戦国時代を戦いぬき、その後も生き延びて領国を発展させたといっても過言ではありません。

この二人の重臣は、主君の命令に盲目的に従ったわけではなく、悪いことは悪いと諫め、最終的には命を賭して主君のために忠誠を誓ったところにあります。

片倉小十郎と直江兼続は、人物的にも参謀としてもすぐれており、天下人となった豊臣秀吉は、何よりもこの二人を欲しがったと伝えられています。

片倉小十郎と直江兼続

伊達政宗は幼いころに患った疱瘡(天然痘)が原因で右目の視力を失い、引っ込み思案な少年でした。

しかし10歳年上の片倉小十郎が教育係となり、学問や武芸その他政宗を導き、そのおかげもあって政宗は性格も明るく積極的な若者に成長したのです。

上杉景勝は、叔父である上杉謙信が倒れて意識不明になった時、直江兼続の機転によって「謙信殿は後継ぎに景勝を」と言い残した、と一族に告げました。

上杉景勝と跡目を争っていた養子の上杉景虎、そして景虎派はこの遺言に反発して、景勝対景虎という「御館の乱」という争いに発展しました。

幼いころから共に学んだ上杉景勝と直江兼続は、お互いに全幅の信頼を寄せて、生涯共に戦国時代を歩みました。

この二人の優秀な忠臣を、豊臣秀吉は何度も勧誘しました。

破格の条件を提示して自分に仕えるように交渉した秀吉でしたが、この二人の忠臣はあくまで伊達政宗と上杉景勝の元を離れる気はないと断ったのです。

この二人の関係性が歴史を動かした?

秀吉の没後、徳川家康は婚姻関係その他で勢力を伸ばし、豊臣家を滅ぼす画策を始め、関ケ原の戦いへと向かっていきます。

関ケ原の合戦では、上杉景勝・直江兼続の西軍と、伊達政宗・片倉小十郎の東軍は、「北の関ケ原」といわれる慶長出羽合戦で対峙することになります。

激戦の末、東軍が勝利を収めましたが、直江兼続の事前の備えによって上杉家は石高を大きく減らされたものの、お取り潰しは免れました。

勝者である正宗側も、不穏な動きを家康に疑われて、思ったほどの加増は与えられず、上杉家と伊達家はここで天下取りの可能性はほぼなくなってしまったのです。

関ケ原の合戦後、伊達政宗は片倉小十郎を伊達領の最南端の要衝の地、白石1万3千石の領主に命じました。

ある日上杉景勝は、米沢(景勝の領地内)に暮らす小十郎の兄の死を知って兼続を呼び「伊達殿は達者かのう?小十郎の兄が亡くなったそうなので手紙を書いて伝えるように」と命じました。

この景勝の心遣いに小十郎は感動し、これが縁で敵対していた伊達家と上杉家の距離が一気に縮まったとされています。

この知らせで、小十郎は米沢へ墓参りに出かけたところ、墓前に兼続がおり、墓参りの後にそれぞれの主君への想いを語り合ったと伝えられています。

この二人の忠臣の力があったからこそ、その後の大阪の陣で勝利し、伊達家と上杉家の領国は繁栄し、幕末まで続いたといっても過言ではないかと思われるのです。

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