今も昔も、兄弟や姉妹の関係は家族によって千差万別で、親が亡くなった後に壮絶な相続争いが起きるのも珍しくはありません。
嫡男の家督継承に重きを置いた武家の世では、家督をめぐり兄弟はもちろん、親や親族すべてが、それぞれの思惑で衝突した逸話が多く残されています。
戦国時代には下剋上と呼ばれる風潮も広がり、血気盛んな武将らには、多くの兄弟間の家督争いをめぐる戦いがあり、真実ではない話も今に伝わっています。
ここでは、戦国武将のなかでも、荒々しいイメージがある東北の覇者「伊達政宗」とその弟にまつわる関係性や謎についてご紹介します。
伊達政宗の家族構成は?兄弟は?関係性は?
伊達政宗は、伊達輝宗と義姫との長男として誕生し、次男の小次郎が唯一の男兄弟で、妹二人も誕生したものの夭折(ようせつ)しています。
伊達政宗は、畿内を中心に天下取りの戦いが繰り広げられた戦国時代に、父親の輝宗の家督を継承し、領国を拡大し覇権を実力のみで獲得しています。
母親の義姫は、政宗よりも次男の小次郎への想いが強く、政宗の毒殺を画策し、小次郎に伊達家の家督を継承させようとしますが、失敗に終わります。
一命を取り留めた政宗は、伊達家の分裂を避けるため、弟の小次郎と傅役の小原縫殿助を手討ちにし、首謀者の母・義姫は出奔したとされています。
筆まめだった伊達政宗の書状から浮上する謎?
伊達政宗が秀吉に命じられた小田原攻めへの参陣の時期に、伊達家内部で起きた家督をめぐる争いは、伊達家の正史に確認できますが、政宗の師である虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師の手紙では全く違っています。
また、伊達政宗が出した手紙とされる「伊達政宗白萩文書」には、真言宗の「大悲願寺」に宛てた書状があります。
当時の13代住職「海誉上人」にあてたその書状には、庭に咲いた白萩の株を分けて欲しいという内容で不審な点はないものの、政宗が寺を訪れた際に、殺されたはずの弟の小次郎が「秀雄」という名で寺にいたと推測もなされています。
これは、大悲願寺に伝わる「金色山過去帳」にも同様の内容の記述が残されていて、「海誉上人」の後に住職となった「法印秀雄」と政宗の弟「小次郎」が同一人物かどうか、いまだに謎のままとなっています。
家督の継承をめぐり伊達政宗は弟を排除した?
戦国時代に家督を継承し、自らの実力のみで領国の拡大を図り東北で覇権を握った伊達政宗は、弟の小次郎に対する母親の義姫の思い入れから、毒殺されかける事件が起きています。
伊達家の秩序と安定のため、政宗は弟の小次郎と傅役を手討ちにしたとされていますが、残された書状などから、疑問と謎も多く残しています。
伊達政宗と弟「小次郎」の二人の関係性は、実のところ二人にしか分からないものの、史実や史料からは兄弟愛も推測されます。
